その声に




その声に。

「どあほう」

笑いを含んだようなやさしい響きを感じて、そう思ったら花道は余計に起き上がれなくなった。汗にすべってころんだままの姿勢で、動けない。
自分がころんだことにびっくりして茫然としていた花道の隙だらけの心に、その声はすうっとしみこんでしまった。
笑ったような声でいって、でも流川はもちろん花道に手を差し出すようなこともなく、少しの間花道を見ていたけれど、そのまま個人練習に戻っていく。
「桜木君、大丈夫?」
花道がインターハイで痛めた背中を治している間にマネージャーになった晴子が、かわいらしい声をかけてくれる。
「あ、だ、だいじょうぶっス」
まだどこかボケボケしている頭のまま立ち上がろうとしたら、ふらっとよろけてすぐ側にあった壁に肩からぶつかって、でも今度はなんとか座り込まないでいられた。しかし、からだに力が入らない。
腰が抜けていた。

「・・・なにそのかお。またふられたの?」
仕事に行くみたいな小奇麗なかっこした母親が、玄関の開く音に台所から顔を出して、花道の顔を見るなりそういった。
「・・・・・なんだよ仕事は?」
「今日は早く終わったのよ・・・だからそのかおどーしたのよ」
「オトコマエなだけェッッていってえなああもう!!」
ぎゅううう、と母親に頬をつねり上げられて、花道はマジで叫ぶ。
「聞かれたことにはちゃんと答えなさいっていっつも言ってるでショー?」
言うより先に手が出るくせに・・・と思うが、もうこれ以上痛い思いはしたくないので黙ってツメの跡がついた頬をなでる。
「・・・ふられてねーよ」
「アラ珍しい」
マジでむかつくこのオバハン。
「なに、誰かに惚れたの?」
「・・・・・」
中学のときもしょっちゅう聞かれていた気がするが、それで花道が一度だって答えたことがないってことをもうそろそろ覚えて欲しいものである。
「でもそのわりにはー、あんまり幸せそうじゃないのね」
「わるかったな」
好きな人ができたと肯定したも同然だが、もういいや、と花道は思う。そしてこれ以上かーちゃんにつきあってられっか天才は忙しいのだ、と口の中だけで呟いて、そそくさと自分の部屋に引っ込む。
そのでっかい背中を見ながら、
「恋のはじめに失恋したみたいなかお、ねぇ?」
今度の恋は両想いになっちゃいそうね、と母親はひとりごちて、ウチの花道あんなにしたのはどこの誰なのかしら、と、うれしいようなさみしいような笑いをこぼした。

明日の朝になったらもうあんな変な感じ、消えてるかもしれない。
そう願って床についたのだが、あいにく目が覚めて花道が一番に思い出したのは流川のかおだった。夢で見ていたのかもしれない。
うなだれて、うるさくご飯を食べろという母親のいうなりにいつもの半分ほど食べて、のろのろと学校へ向かう。そのわりに遅刻もせずに登校できたのは不思議でさえあるが。
いつもなら寝てばっかりの授業でも、どうにも寝る気にもなれない。また夢に流川がでてくると自分がどうなるのかわからなくて不安だっていうのと、恋のはじまりにこんなに胸がざわざわするのなんて初めてで、本当にこれが恋なのかわからないじゃないか、なんて考え続けて、そうしたらいつの間にか昼休憩の時間になっていた。
「はーなーみーちー」
目の前で手のひらが揺れている。
「メシだっつうの」
同じクラスの洋平がいつまでたっても動かない花道に声をかける。ああ、昼か・・・と思って、でも花道はもう何も食べられないような気がしていた。
「メシ、いらねー」
その言葉に、洋平だけでなく周囲の同級生も花道を振り返り、ぼそぼそと、
「やっぱまだ背中の具合が・・・」
「季節の変わり目だし、風邪かも・・・」
とか囁いていたのだが、花道はもうそれどころではなく、ふらりと立ち上がってクラス中の視線を背中に受けながら教室を出て行った。
それを見て、洋平のそばにいた女子生徒が、
「・・・洋平君、桜木君病院いったほうがいいと思うよ」
寝ないし動かないしご飯食べないなんてー。
「・・・」
洋平はもう一度花道が出て行った教室のドアを見て、そしてため息をつくと、女子生徒に肩をすくめて見せた。

『どあほう』
ムカッとくる言葉でしかないはずなのに、どうしてあの時はあんなふうに腰が抜けてしまったのか。
べた、ときれいにしりもちをついてしまって、そうしたら流川が少しびっくりしたみたいに振り返って、そうして笑い出すんじゃないかっていうかおをして、そのまま、どあほう、といった。
それだけのことだ。なのにこんなに簡単に。
午後の授業が始まるチャイムが鳴っても、花道は部室から出なかった。
考え事をするのは、誰もいない部屋の方がいい。
そう思いつつも、もう考えることもないような気がしている。
つい、側にあったボールとボール磨き専用の布きれを手にとって磨く。
一生懸命手を動かしてボールをひとつ、またひとつときれいにしていくうちに、頭の中はたった一つのことだけで占領されていく。
もう一回、流川にああいう風に呼ばれたいかもしれない、と思ったその瞬間。
「どあほう?」
ドアが開いて、今度こそ花道は本気で腰が抜けた。幸い最初から座っていたので、流川にばれてはいないと思うのだが。
「な、なにしてんだテメー!」
「テメーこそサボってんじゃねえか」
さっさと部室のドアを閉めて中に入って来た流川が、花道の脇にあった椅子を引き寄せて座ると、花道の足元にある布を指差して、よこせ、といった。
「どーせ寝に来たくせにエラソーにいうんじゃねーよ」
どうにかこうにか普通の声を出しながら、流川に布を渡す。でも少し声が震えていたかもしれない。わからなかったとおもうけど。
そのまま黙々とふたりしてカゴいっぱいのボールを磨く。使い込まれて黒光りしているものほど大事に思えるから不思議だ。以前の花道は新しいものを選ぶように使っていたのに。磨きながら、花道は流川をちらりと見る。古かろうが新しかろうが関係ないというふうに丁寧に磨くその手にさえ、自分にはないバスケの経験がにじみ出ているような気がして、盗み見のはずがじっと見てしまう。
「手が止まってる」
「る、っるっせー」
こっちを全然見てないくせになんでわかったのだろう。そう思って、でもすぐに、ああ、音が、と花道は納得する。気づいてしまえばもう恥ずかしくて、手を止められなくて、ただもう一心にボールを磨く。
全部のボールを磨き終えたのは、6限目の始まるチャイムが鳴り終えた頃だった。
そうしてふたりでボールを全部カゴにしまいながら、流川が、
「おつかれ」
とまるでそういうのが習慣かのようにいったから、花道はまたすとんと椅子に腰を落としてしまって。
そのはずみで言葉が出た。
「ルカワ、オレお前が好きになった」
がしゃ、と音がして、流川がボールを入れたカゴのふちに手をついた。突っ張ったようにまっすぐ伸ばされた腕はまるで、必死で流川のからだを支えているように見える。
「・・・どあほう。腰が抜ける」
いいながら振り返った流川が、まるで昨日の花道のような顔をしていたから、花道は笑って、もう一度、好きになった、と呟いた。

おしまい







ニジゲンラヴ様のところで踏んだキリバン「8731」記念で書いていただいたお話です。

いやあ、このサイトはじめての小説ー^^。はるかさんホントにありがとうございました。

花道の方から流川に告白する話、でハッピーエンドを希望したです。繊細なシリアスを書かれる方なので、ご苦労もあったかと思いますが、小説をいただける喜びはちょっと、やみつきになりそうなくらいの幸せ、ですね^^。





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